今回この「シリーズ」(?)を書き始めて例えば太陽の近くを通る光の軌跡(曲がる角度)の計算をやろうと思い、子供のころに書いた論文を探しました。しかしそれが見つからないのです。私は過去を振り向かない男で、過去をすべて捨てる覚悟で生きています。だから自分で書いた論文が手元にないのです。
しかしはじめから計算をやり直すのも馬鹿らしいので、インターネットで探してみました。すると見つかったのです!PDF化されたものを出版社がちゃんとインターネットで公開していました。以下は光の曲がる角度を計算した最後の部分です。
当時私は結構難しい計算をしていたようです。今では簡単な積分もできないので、不思議です。前に「ホイヘンスの原理で光の曲がる角度は簡単に計算できる」と書いた記憶がありますが、そう簡単ではありませんでした。しかし一般相対性理論よりもずっとシンプルで、大学1、2年生であれば理解できるように思います。ちなみに最後に「(通常の特殊相対性理論では)曲がる角度が正しい値の半分になる」と自慢しています。
さらに自分で書いたこの論文を読むと、思ったよりもエレガントに加速場を一般化していました。当時の私が今の私を見たらきっと鼻で笑っていたでしょう。
ちなみにこの論文がマイナーな雑誌に掲載されたのにはいろいろと訳があります。その事情だけでいくつかのエントリーになると思いますが、ここでは私を応援してくれたErich Bagge博士について書きます。ちょっとだけ… (正確な発音がわからないのでBaggeとそのまま書きます・・多分バッゲ?)
Bagge博士は1981年に特殊相対性理論を考慮した場合天体の動きがどのようになるかという論文を発表しています。私の論文でもBagge博士の論文を冒頭で紹介しています。そこで私の論文をドイツにいる彼に送りました。するとすぐに国際電話がかかってきていろいろと褒めてくれるではないですか。子供としてはうれしいです。「君、日本だったらT大学の物理学科がいい。進学しなさい」と高校にも行けなかった私に言うのです。笑っちゃいます。
さらにこの先生、あの有名なハイゼンベルク博士の元で博士号を取り、さらに私が読んだ本にも登場しています。一つが朝永振一郎博士の「滞独日記」です。朝永博士は戦前にハイゼンベルク博士の研究室にいました。当時Bagge博士はまだかなり若かったと思いますが、同じ研究室にいたというだけでなんだかうれしいです。(当時のハイゼンベルクは若くしてすでにノーベル賞を受賞していた超有名人です)それからドイツ敗戦後、連合軍は優秀な科学者がソ連へ連れていかれないよう、イギリスの収容所に移動させました。その中にはハイゼンベルク博士やBagge博士、それから核分裂を発見したオットーハーン博士がいます。「Heisenberg’s War: The Secret History of the German Bomb」という本があるのですが、ここにもBagge博士が登場します。これが二冊目です。
この記事によればイギリスに連れていかれたのは10名ですべてナチ政権下で原爆に研究に関係していた科学者です。
当時なぜ私がこの論文を科学誌に掲載したいと思ったか/掲載する必要があったのか・・・そのへんの経緯は機会があれば書きます。なお、Bagge博士はすぐにシカゴ大学の物理学者テネンバウム博士に私の論文を送ってくれたのです。そして出版に繋がりました。
私はこの論文をスティーヴン・ワインバーグ博士にも送ったのですが、「申し訳ありません。忙しくて読む時間がありません」という丁寧な返事がきました。サイン入りで!過去を振り向かない私です。当然その手紙も行方不明です。今手元にあれば自慢できます。結構ミーハーでもあります。
上に書いた10人のドイツの学者がイギリスに連れ出された話には涙なくして語れないことがあります。ハイゼンベルクが亡くなって20年近くたって、彼らの会話の記録が公表されました。盗聴されていたのです。その中には広島への原爆のニュースが伝えられた直後の記録もあります。その時、原爆が航空機により投下されたと聞き、誰もがあり得ない、という反応でした。当時ドイツでは原爆は船でしか運べないほど大きくなると信じされていたからです。しかしハイゼンベルクは他の9名に原爆を小さくする方法の詳細を話し始めました。彼はすべてを理解していたのです。しかしハイゼンベルクはヒトラーに対して原爆は小型化が難しく実用的でないという報告書を何度もあげていました。
ところが戦後、ハイゼンベルクはドイツの原爆開発に携わったと非難されたのです。