今日は相談ごとではありません。私の独り言です。
(M.N)
13歳のときに神田神保町で「航空力学」という本を購入しました。そう、私は飛行少年だったのです。その内容は当然中学生には難解なものでしたが、学校の勉強もせず、繰り返しその本を読みつづけたのです。結局中学時代に読んだ唯一の本がその「航空力学」で、その結果私は高校受験にすべて失敗したのでした。
さて、その本を読んでいてちょっとした間違いに気がつきました。いや、実際は間違いではなく、言葉遣いが厳密でない程度のものでした。が、とにかくその著者に手紙を書きました。内藤子生(ないとう・やすお)先生がその人です。すると私よりも半世紀以上年上のその先生から返事が届きました。「次の版で修正します」それからというもの、飛行機に関するアイデアが浮かぶと必ず手紙で報告しました。もちろんその都度先生からは丁寧な返事が戻ってきます。完全に私を対等な人間として、丁寧な返事が返ってきたのです。中学3年の時には私の書いた論文を先生の口利きで(おそらく半強制的に!)学会誌に載せていただいたこともあります。
当時日本大学の工学部で毎週土曜日に航空力学を教えていた内藤先生は、講義の後必ず御茶ノ水駅前の中華料理屋さんで同僚の安達先生とともに餃子をつまみに酒を飲んでいたのですが、いつの間にかこの生意気な中学生も参加するようになっていました。そこでは戦時中に設計に関わった彩雲という偵察機の話や、戦後初の国産ジェット機の主任設計技師としての経験など、実に楽しく貴重な話を聞いたものです。
数学科に入学し「群論」という抽象的な勉強をしていた頃、本当に数学が自分にあっているのか疑問に思ったそうです。そんな時河原で一人ぼーーとしていると、機関車が力強く走るのが見えたそうです。そして「僕はこういうものを造りたいんだ!」そう思い大学を再受験して航空学科に入学したという話が、今でも鮮明に、そして強烈な印象とともに私の脳裏に残っています。
普通では信じられないこの話ですが、100%事実です。高校に入学できず、「独学」生活をはじめた頃まで毎週のように続いたこの土曜日午後の出来事は、一生忘れないでしょう。戦前は中島飛行機の設計技師として活躍し、その後富士重工業(スバル)で戦後初のジェット機を設計し、取締役も務め、東海大学の教授になった内藤先生が一昨日亡くなりました。
今日は皆さんにこのような立派な人が世の中にはいるのだということを知ってもらいたく、真面目に書いてみました。
(M.N)